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JR大阪環状線ミステリーの謎に秘められた真実 あなたの知らない環状線の旅

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JR大阪環状線ミステリーの謎に秘められた真実 あなたの知らない環状線

鉄道アナリスト 川島令三さんのお話

全国のループ型路線
東京の山手線 名古屋の名城線 北海道の札幌市電

JR大阪駅のホームの小屋?の謎

1日に100万にい以上が利用する関西最大の路線JR大阪環状線
19駅がループ状になって配置され、1961年に開通されました。

環状線のターミナル駅JR大阪駅の2階からホームを見下ろしたら…

ホームの上に小屋がそれぞれに一つずつ計3つある。
大阪駅が開業したの1874年(明治7年) 大阪ー神戸をつなぐ起点として旅客や多くの貨物列車も集まっていた。

明治時代の物流は主に船を使用し、駅に集められた貨物を全国に届けるには馬車を使って大阪湾まで運んでいたため、時間がかかりました。

官営鉄道は、大阪湾~堂島川~大阪駅をつなぐ水路をつくり駅に船溜まりを作りました。
当時の大阪駅は、列車だけではなく貨物船も乗り込んでいました。

積み荷の上げ下ろしをスムーズにするためエレベータを使用していました。
その跡が、この小屋のようなものです。
現在でも、業務量エレベーターとして使用されています。

JR大阪駅 1F中央コンコースの床の模様の謎

床の幾何学模様みないな線が迷路になっています。

幅6.8m×長さ80mの巨大迷路
1991年 当時の設計者の遊び心で作られた。

大阪環状線は、ほとんど高架である!?

都会の中を走る環状線は極力踏切をなくすためほとんどが高架になっています。

しかし、京橋~森ノ宮区間が 効果でなく地上を走っている。
それは、この区間を走っていると見える大阪城が理由です。

戦時中、ここにあったのが太平洋戦争時代。と洋一の軍事工場といわれた兵器工場 大阪砲兵工廠がありました。
一般人は立入禁止で周囲に高い壁が施されていたため電車から仲が見えないようにしたためです。

JR野田駅 外回り線の線路外側の謎のスペース

野田駅の外回り線の環状線ー貨物船ー謎のスペース

謎のスペースは、200mほどのスロープになっていて下の道路へとつながっています。

1931年(昭和6年) 東洋一の市場 大阪中央卸売市場
鮮魚や青果を新鮮なまま市場に届けるため大阪市場線という市場直通の電車が大阪市場駅まで走っていました。

昭和後半になると輸送方法がトラックにシフトしていき、1984年大阪市場線は、廃止となりました。
かつて、大阪市場線が走っていたレールの跡です。

道路部分は、現在、野田緑道といわれる遊歩道になっています。

JR京橋駅 かなしきホーム

乗車人員1日平均
大坂 約43万人
天王寺 約15万人
京橋 約14万人 と第3位の駅

内回り戦のホームの下を見ると石垣が積まれています。
外回り線にも石垣が積まれていますが、内回り戦の方が汚れた感じになっています。

1945年 8月14日 大阪大空襲
当時大阪城内にあった大阪砲兵工廠を狙いB29による爆撃があり大阪城付近が火の海になりました。

付近にいた人たちは、一斉に京橋駅のホームの下に隠れました。
流れ弾が外回り線ホームを直撃しホームは跡かたなくなくなり、そこにいた700人以上が犠牲になりました。

その後。駅を再興するにあたり外回り線の石垣だけ作り直したため色が違っているそうです。

天満駅 なぜそこに?

JR天満駅があるところから、実際の天満地域とは1km以上かけ離れています。
天満駅はある意味天神橋4丁目駅か、錦町駅であるべきですね?

そもそも、天満エリアとか「大阪天満宮(天神橋2)界隈の事さしていた。
さらに天満青物市場ができるとその辺りが商業地として栄えたため天満宮と市場あたりを天満エリアと呼ぶようになりました。

1894年(明治27年)とある鉄道会社が…
初代大阪駅(1874年) 当初は、交通の便がいい中之島に市街地付近に建設予定でした。
汽車は、火を焚いて走るためそんなものが町中を走ると危ないと大反対をくらいます。
大阪駅は、人気のない墓場の上に建設されることになります。
大阪駅北側の再開発で人骨がいっぱい出てきたため墓だったことが分かったそうです。

天満エリアに建設予定でしたが市民の苦情を避けるた市街地から2km離れたエリアに建設しました、
そのあと、続々と駅ができてきたため天満エリアから一番離れた場所になってしまいました。

東京の山手線 大阪環状線の違い

どちらも同じループ型の路線ですが、
山手線は 29駅をつなぐ感情路線を回り続ける。
大坂環状線は、1周する電車は 15分に1本 奈良へ行く大和路線や桜島行きのゆめ咲線、和歌山へ向かう阪和線のダイヤが組み込まれているためです。

東京山手線 線路の内側に私鉄駅が少ない
大阪環状線 路線の内側に私鉄の駅が多い(阪神梅田駅、南海難波駅他)

 
1889年(明治22年) 私鉄大阪鉄道
湊町(JR難波駅)~柏原路線の建設に着手 1890年なら駅まで延伸
明治政府役人に建設を認められたが、官営鉄道大阪駅へ続く路線も作ることを条件にされましたが予算的に湊町まででギリギリでした。

新線路の敷設には政府の許可が必要でした。
条件の飲むために地下が安めの路線をつくろうと天王寺駅から大阪駅の環状線路線でつなげることにしました。

環状線は、官営鉄道の路線は少なく、ほとんどが私鉄の線路で繋げられました。

大阪鉄道が作った路線が化けると読んだ私鉄関西鉄道
最盛期には 大阪~京都・奈良・和歌山・名古屋をつなぐ巨大路線をもつ私鉄でした。
大阪進出の足掛かりとして、大阪鉄道の作った港町~大阪路線を奪う計画をしていました。

1900年(明治33年) 大阪鉄道が買収される形で関西鉄道と合併し、湊町~大阪路線は譲渡されました。

1904年状況が一変 日露戦争勃発
国の鉄道と私鉄が入り混じる状況は非常に良くないことだと私鉄を買い上げ国有化し日本の国力を上げるべきだと軍部が言い出す。

兵隊や牛の輸送を簡単にするために国が私鉄路線を強制的に買収する鉄道国有法公布

この時に環状線を含む私鉄路線が官営鉄道の所有に変わります。
西九条ー野田ー大阪ー天満ー桜の宮ー京橋ー天王寺と今の環状線の3/4の原型が出来上がりました。

そして戦後、1955年(昭和30年) 大阪は、商都ととして急速に発展し人口が激増し市電やバスだけでは交通手段が足りない状況になり、大阪西部にも大阪環状線を作って欲しいとの要望に応える感じ1961年環状線のループ路線が開通しました。

現在乗り入れている大和路線は、かつての大阪鉄道の路線です。
ゆめ咲線や阪和線、片町線も元々は、製鉄が作った路線だったのです。

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