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明治維新 元号明治から150年 日本が一つの会社(Jyankstory.Inc)だったとしたら・・・10分でわかるお話!? 西郷どん

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明治維新 日本が1つの会社だったとしたらのお話

明治維新 元号明治から150周年

元高校教師 河合敦 多摩大学客員教授のお話

窮鼠の一矢

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幕末の混乱を書いた小説

明治は、15年程しかないのに色々と事件などがあり覚えにくい所らしい・・・
しっていお
さて?私は・・・何も出てこない・・・

日本が一つの会社 Jyankstory.Incだったら!

経営権は、東京本社の江戸社長が実権握っていました。
創業者会長の帝は、京都で引導生活を送っていたとさ

「日米修好通商条約」1858年

ある日、アメリカの貿易会社が強引な契約を迫られることになる。

アメリカ「はやく契約してくださいよ。」
江戸社長「もう少し待ってください。決断には帝会長の許可が必要ですので・・・」
アメリカ「うちと取引しないとどうなるかわかりませんよ?」

『江戸社長(もしかしたら、隣の国のライバル会社(中国)のように
イギリスの商社と摩擦を起こし会社を乗っ取られたりしてしまうのでないか・・・』

 「南京条約」(1842年)
清(中国)は、イギリスとアヘンの売買で戦争
香港を取られる不平等な条約を結ばれる。

アメリカ「契約したらその脅威などからから守ってあげますよ・・・」
江戸社長「(帝会長の許可を取らずに) アメリカさん取引しましょう。」と決断

 「日米修好通商条約」1858年
日本は、輸入品に税金をかけれず
外国人が犯罪を犯しても捌くことができない。

税金も払ってもらえず 不良品があっても買い戻してくれないという契約・・・

「安政の大獄」1858年

会長に許可も取らずアメリカと不利な契約を結んだことを知った社員たちは・・・
不満が続出し、社長に直談判するものも現れ始めた。
そこで社長は・・・そいつらを首にしていく 大リストラ・・・

 「安政の大獄」1858年
幕府の大老井伊直弼は
自分に盾つき外国人を打ち払えと意気込む攘夷派を大量に処刑

攘夷=西欧列強の外国人(夷人)を実力行使で打ち払えという考え

「桜田門外の変」1860年

リストラされ不満が爆発した社員から社長側近の秘書が暴漢に襲われて死亡

 「桜田門外の変」(1860年)
大獄の報復によって井伊直弼を暗殺
徳川幕府の威信が振らぎ始める。

アメリカが不利な契約をして乗り込んできたことで内部抗争が勃発しだす。
秘書が暴漢に襲われた事件により、各支社にも飛び火していく

「八十八夜の政変」1863年

山口支社長 長州は、このままでは会社が乗っ取られてしまうと思い
社長を辞任させ会長にまた実権を握らすことがこの危機を乗り越える方法だと考え
会長の元へ

このことが江戸社長に耳に入り
鹿児島支社長の薩摩に長州の制裁をするように命令する。
外国との取引には反対だったが社長に反対する考えではなかった薩摩は
長州を追い出しにかかる。

 「八十八夜の政変」1863年
薩摩を中心とした徳川はが天皇派の徴収を
一部の公家と共に京都から追放。

それでも気に食わない江戸社長は、
長州に始末書や給料の返還 支社での損害金の請求などをするよう薩摩に命令する

そこまでする意味がわからない薩摩は、社長に不信感を抱き始める。

「薩長同盟締結」1866年

薩摩は、元高知支社長のフリーランス坂本さんに相談する。
坂本「社長を変えるべきですよと・・・」
そのためには、薩摩さんと長州さんが力を合わすべきだと・・・

薩摩に恨みのある長州だが坂本の説得で力を合わすことに・・・

 「薩長同盟締結」1866年
坂本龍馬の仲立ちで薩摩と長州が手を結び
軍事的に助け合うことを約束する。

「大政奉還」1867年

そして、社内に強大な勢力が出来たことが広まり他の支社にも影響が出始め
江戸社長の時代が長く続かないと判断した高知支社長の土佐が
薩摩・長州の流れに乗り遅れまいと江戸社長の辞任を説得してみようと名乗り出る。

そして・・
権力争いをして負けるより経営権を帝会長に返納した方が後々やりやすいのでは?との
説得で江戸社長は、辞任することを決意

 「大政奉還」1867年
15代徳川慶喜が政権を朝廷に返上
260年続いた江戸幕府が幕を下ろす。

帝会長中心の体制に変換していく・・・
平和的に政権を朝廷に変換したつもりなの江戸社長は新しい政権に参加することができなった。

そして、徳川家が暴発して・・・戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦い 1868年1月 京都
甲州勝沼の戦い 1868年3月 勝沼
上野戦争 1868年 5月 江戸
長岡城の戦い 1868年 7月 長岡
会津の戦い 1868年 9月 会津
秋田・庄内戦争 1868年 9月 秋田
五稜郭の戦い 1869年 5月 函館

鳥羽・伏見の戦いで
新政府軍4000人VS旧幕府軍15000人での戦いだったのに負けてしまいます。
徳川慶喜がこっそり夜逃げしてしまって指揮官を失った旧幕府軍が敗戦した。
薩長が官軍と考え朝廷の敵 朝敵になるのだいやだったからとか・・・
錦の御旗を掲げたのが士気をさげたとも

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西郷 隆盛 / 西郷どん

1828年1月23日 鹿児島の下級武士の長男として生まれ
持ち前の人心掌握術で藩主(島津斉彬)の右腕として活躍し
朝廷や幕府の重鎮の信頼も厚く、京都で暴発した長州を武力で抑え
敵対していた長州も薩長同盟で味方につけ倒幕活動に尽力し、動乱の時代に多大な功績を遺す

明治維新のヒーロー だが・・・裏の顔は?

黒船来航で江戸の人たちがパニックになっているころ
まだ一介の武士の西郷は、当時の藩主に才能を見いだされ藩の政治活動に参画
安政の大獄が始まったその年 藩主が急死
もう生きていく意味がないと・・・後追い自殺・・・入水自殺失敗

24歳の時 上司の娘と結婚
しかし、下級武士だったことから生活が苦しく奥さん逃げられる。
ショックを受け「一生不犯」二度と女性と関係を持たないと誓う

6年後 奄美大島の女性と再婚

3年後 倒幕活動が活発になる最中、料理屋の仲居に一目ぼれ
その相手が太っていたため「豚姫」となづけてかわいがっていた。

デブ専だったとも

そして、甘いものがすごい好きで100kgを越えていたそうで医者から痩せろと言われ
運動、ダイエットとのために兎狩り出ている姿が、よくある犬を連れての銅像だとか?

新政府では、陸軍大将に任命され活躍するがしかし意見の食い違いで失脚し鹿児島へ
反政府軍の指揮官となり西南戦争が勃発
最後は、自ら育てた政府軍に追い詰められ城山で自らの首を切らせ非業の死を遂げることになる。

最後は、ぼろぼろで地に落ちたヒーロー!?

でも政府軍の元部下にも慕われていた西郷どん
追い詰められる前の日に政府軍の元部下が惜別の曲を演奏をしたとか・・・

いまでも西郷どんの命日にお墓の前で自衛隊が演奏しているそうですね!?

私の解釈の違いがあるかもしれませんが基本的には、河合敦 多摩大学客員教授の見解です。
※ビーバップハイヒールでの内容です。

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