家康の最大の危機 神君伊賀越え
天正10年6月2日 織田信長落命 本能寺の変
この時、茶会で来ていた徳川家康は三河へ引き返すことを決断
のちに家康の最大の危機 神君伊賀越えの始まりだった。
この歴史に残る大脱出の陰には忍びの活躍があった!?
本能寺の変後・・・
明知光秀の謀反により信長公が亡くなって
その知らせが家康に報せが届いたのは本能寺の変の数時間後のこと
家康は、かねてより京都に数人の忍びを派遣して情報収集していたのでした。
信長の首を取った後、盟友の家康も勢いで狙う体制に・・・
明知光秀軍15000(京都) VS 徳川家康30人(大阪) 40km県内で両者対峙していた。
忍びの知らせが1日遅れていたら 歴史が変わっていたかもしれませんね!?
最大の危機 神君伊賀越え
三河に一刻も早く帰り明智光秀の首を狙う体制を整えるため尽力した男
父の代から徳川家に仕える伊賀の名門 服部家の者 服部半蔵正成
伊賀を抜ける山賊なども菱めく最難関の最短ルートをたった30人の軍勢で突破させた。
しかも、家康の首には光秀によって賞金もかけられていたのです。
服部半蔵正成の行動、作戦
仲間の要請
伊賀の里に向かい皆の者に家康公の護衛に協力を要請しにいった。
200人の伊賀忍者が協力
さらに・・・
ルート散策・下調べ
伊賀のライバル甲賀にも護衛を要請し最終的に300人の忍者が終結
予定のルートに先立って忍者を派遣
危険がないかを確認させ、時には山賊を買収し
道しるべに五色米を使い
敵の数やルート変更の合図し道しるべにしていた。
影武者の多数放つ
堺~岡崎のルートに複数の影武者を放ち錯乱させた。
伊賀越えには複数の説が存在しているのは影武者のせいかもしれない。
そして、無事に三河に到着。
活躍が認められた忍者は、家康に好待遇で召し抱えられたそうです。
忍者が居なければ、家康の時代はなかったかもしれませんね!?
でも、ほかの人たちも忍者を使っていたわけなので・・・
服部半蔵正成が優秀だったということですかね!?
伊賀と甲賀
伊賀と甲賀は敵同士ではなく隣同士なので良きライバル
同盟を組んだり、切磋琢磨して向上させてきた。
山田風太郎 甲賀忍法張で甲賀と伊賀が戦うのでその影響で敵対するイメージがついてしまったそうです。
それ以後、敵対する漫画とかも多くなっている。
三重大学 人文学部 吉丸雄哉准教授のお話
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